明治20年までは御園村・女塚村の総鎮守として八幡社が現在の蒲田駅東口の付近に鎮座していましたが、東海道線敷設のため境内地を収容され風致がはなはだしく損なわれたので、女塚村と御園村はそれぞれ鎮守を移転することになりました。建築工学 Together! The New Architecture of the Collective。
明治21年境内を広め、御園神社と改称して現況のような鎮守様となりました。建築工学 Raymond Loewy: Industrial Design。昭和20年、蒲田一帯はほとんどが戦災によって焼け野原になりましたが、戦後いち早く復興しました。住宅ディテール集・建具・出入口・窓・2冊/日本の匠(たくみ)のわざ・伝統の宝物として受け継がれてきた面目が息づいているでありましょう。昭和35年には、現社殿と社務所が竣工し諸々の施設が整いました。サイン本 安藤忠雄 住宅 住吉の長屋 落款あり。その後社務所のみ新築しました。日本土木史(平成3年~平成22年) 1991~2010/土木学会。